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第3話 決意

last update publish date: 2026-10-11 18:10:19

妊娠が分かってから十日ほどが過ぎた。

私は相変わらず東條怜司の秘書として働いていた。

朝は誰よりも早く出社し、その日の予定を確認する。会議資料を整え、取引先からの連絡を取り次ぎ、必要な手配を済ませる。

仕事をしている間は余計なことを考えずにいられた。

けれど、ひとりになるとどうしてもお腹の子のことを考えてしまう。

この子を産む。

そう決めたはずなのに現実を考えると不安は尽きなかった。

出産にかかる費用。仕事を辞めたあとの生活。子どもを育てるために必要なもの。

ひとつずつ考えていくと何もかもが簡単ではないと分かる。

それでも後悔はしていなかった。

この子を守ると決めたのは私自身だ。

誰かに頼るのではなく自分の力で育てていかなければならない。

そう思っていた。

「白石。今日の午後の予定を確認してくれ」

デスクの向こうから怜司の声がした。

「はい。本日は十四時から取引先との打ち合わせ、十五時半から役員会議が入っております」

「役員会議の資料は」

「先ほど各役員のデスクに配布しました。社長用の資料はこちらにございます」

私は資料を差し出した。

怜司は受け取り目を通してからうなずいた。

「ありがとう。いつも助かる」

「恐れ入ります」

短い会話。

たったそれだけのことなのに彼の声を聞くと胸が苦しくなった。

本当は伝えたい。

怜司さん。私、妊娠しました。

あなたの子どもです。

けれど、その言葉を口にすることはできなかった。

あの夜の言葉を信じたい気持ちと、翌朝に聞いた電話の内容が、今も心の中でぶつかり合っていた。

もし妊娠を伝えれば彼は責任を取ろうとするだろう。

けれど、私は責任から始まる結婚を望んでいるわけではない。

唐突に、社長室の電話が鳴った。社長へ直通の内線を繋げる人は限られている。

「……父さん?」

怜司の声が聞こえた。

「今から?分かった。こちらに来るなら十四時までにしてくれ。会議がある」

電話を切った怜司は手元の資料に視線を戻した。

私は予定表を確認しながら尋ねた。会議まではあと一時間。

「会長がお越しになるのでしょうか」

「ああ。少し話があるらしい」

「承知しました。お茶をご用意いたします」

「頼む」

それから三十分ほどして会長が社長室を訪れた。

東條グループの会長であり怜司の父親でもある人。

何度か顔を合わせたことはあるがいつも緊張してしまう相手だった。

「失礼いたします。お茶をお持ちしました」

二人の前にカップを置き私は一礼した。

「ありがとう。白石さん」

会長は穏やかに礼を言った。

その口調は丁寧だったが視線はどこか鋭い。

「怜司。少し時間をもらうぞ」

「そのために予定を空けたんだろう。話してくれ」

怜司は椅子に座ったまま父親を見た。

よほど急いでいたのだろう、会長はひと口お茶を飲むと、私の退室も待たずに切り出した。

「お前の結婚についてだ」

その言葉に思わず動揺してしまう。

結婚。

聞きたくない言葉だった。

これ以上プライベートな会話を聞かないよう、そのまま急いで扉へと向かう。

「白石、待て」

ふいに呼び止められる。

「はい」

「今後の予定の調整に響くかもしれない。少し残っていてくれ」

「承知いたしました」

電話で話していた、見合いの予定をいれるのだろうか。私は手帳を開き、万が一にも動揺を悟られないよう壁際に控える。

会長も特に気に留める様子はなく、怜司さんに向き直った。

「またその話か」

怜司は面倒そうに息を吐いた。

「何度も言っているが見合いなんぞで結婚するつもりはない」

「必ずしも見合いとは言っていない。ただそろそろ相手を決めておけと言っているんだ」

「必要になったら考える」

「必要になってからでは遅い。お前は東條グループを継ぐ立場なんだぞ」

会長の声が少し低くなった。

「結婚はお前ひとりの問題ではない。会社の将来にも関わる。家同士のつながりもあるし周囲からの期待もある」

「分かっている」

「分かっているならもう少し真剣に考えろ」

私は手元の手帳を穴が空くほど見つめていた。

これ以上聞きたくなかった。

「細井商事からの見合いの話も来ている。先方はお前に好意的だ。会うだけ会ってみたらどうだ」

「仕事の合間に見合いまでしろと?」

「仕事が忙しいのは分かっている。だがいつまでも後回しにはできない」

怜司はしばらく黙っていた。

その横顔からは何を考えているのか読み取れない。

「……考えておきます」

ようやく口にした言葉はそれだけだった。

会長は満足したのかうなずいた。

「そうしてくれ。お前のためでもあるんだからな」

***

廊下を歩きながら私は何度も会長の言葉を思い返していた。

結婚は会社の将来にも関わる。

家同士のつながり。

周囲からの期待。

どれも私には関係のない世界の話だった。

怜司は東條グループを背負って生きている。

その立場にふさわしい結婚を求められるのも当然なのだろう。

彼の隣に立つ女性はきっと私とは違う。

家柄がよく教養があり社交の場にも慣れていて東條家の一員として周囲から認められる人。

私には何ひとつ自信がなかった。

だったら私が身を引けばいい。怜司のそばを離れればいい。

そうすれば彼は彼の人生を歩める。

私はこの子を自分の力で育てていける。

もちろん簡単なことではない。不安もあるし怖さもある。

それでも決められるのは、今しかないのだ。

***

その日の仕事を終えたあと私は自分のデスクに残っていた。

パソコンの画面には退職願の文書が表示されている。

何度も書き直しようやく形にしたものだった。

退職理由は一身上の都合。

本当の理由など書けるはずがなかった。

怜司の子どもを授かったこと。

彼を好きでいることが苦しくなってしまったこと。

そしてこの子を守るために彼の世界から離れようと決めたこと。

何ひとつ伝えられない。

私は文書を印刷し内容を確認した。

これを提出すればもう今までのように彼のそばにはいられなくなる。

毎朝顔を合わせることも。

仕事の合間に声をかけてもらうことも。

彼の横顔を見ながら胸を高鳴らせることも。

すべて終わる。

そう考えると涙が出そうになった。

ずっとそばにいたかった。

彼の役に立ち仕事で成功する姿を近くで見ていたかった。

いつかほんの少しでも彼にとって特別な人になれたら。

そんな夢を捨てきれずにいた。

けれど、もう終わりにしなければならない。

私は退職願を封筒に入れ鞄にしまう。

明日提出しよう。そう心に決めてパソコンの電源を落とす。

通勤途中の歩道には落ち葉が目立つようになった。冷たい風に肩をすくめながら、紗奈はコートの襟元を引き寄せた。

***

翌朝、社長室に入ると怜司はすでに仕事を始めていた。

「おはようございます、社長」

「ああ、おはよう」

私はいつもどおり朝の予定を説明し必要な資料をデスクに置いた。

そのあとひと呼吸おいてから声をかけた。

「社長。少しお時間をいただけますでしょうか」

怜司が顔を上げた。

「どうした?」

私は鞄から封筒を取り出し両手で差し出した。

「突然で申し訳ありません。退職させていただきたくこちらをお持ちしました」

怜司は封筒を受け取ったもののすぐには中を確認しなかった。

「……退職?」

「はい」

怜司はゆっくりと封を開け、退職願を一瞥する。

「理由を聞いてもいいか」

私は用意していた言葉を口にした。

「一身上の都合です」

「書類を見ればわかる。そういうことが聞きたいわけではない」

「……申し訳ありません」

怜司の声がわずかに低くなった。

「何かあったのなら話してくれ。仕事に不満があるのか。待遇のことか?」

「いえ。そういうことではありません」

「では、なぜ急に辞める必要がある」

私は唇を結んだ。

本当のことを言えば彼はきっと驚くだろう。

妊娠していると知れば責任を感じるかもしれない。

引き止めてくれるかもしれない。

けれど、それでは駄目なのだ。

「……個人的な事情です。申し訳ありません」

怜司は黙って私を見つめていた。

その視線に心が揺れる。

辞めないでほしいと、言ってくれるだろうか。

けれど、そんな言葉を待つ資格が自分にあるとは思えない。

「……少し考え直してくれないか」

やがて怜司が口を開いた。

「君の仕事ぶりには満足している。急に辞められると正直困る」

「申し訳ありません」

「謝ってほしいわけじゃない。事情があるなら相談してくれればいい。俺にできることなら力になる」

その言葉が胸に深く刺さった。

相談してほしい。

力になりたい。

怜司はそう言ってくれている。

本当はその言葉にすがりたい。

今すぐにでも泣きながら打ち明けたかった。

私は妊娠しています。あなたの子どもです。

本当はあなたと一緒にいたいんです。

けれど、それを口にしてしまえば彼の人生を変えてしまう。

私は必死に笑顔を作った。

「ありがとうございます。そのお気持ちだけで十分です」

怜司の眉がわずかに寄った。

「白石」

「はい」

「本当に俺には何も話せないのか」

声は静かだった。怒っているわけではない。

それでも、その切実ともとれる声色と問いかけに胸が締めつけられた。

私は目を伏せた。

「……申し訳ありません」

長い沈黙が落ちた。

怜司は封筒をデスクの上に置きゆっくりと息を吐いた。

「分かった。すぐに結論を出すつもりはないが、君の希望をできる限り尊重したい。人事と相談して決めよう」

「ありがとうございます」

私は深く頭を下げた。

顔を上げることができなかった。

彼の表情を見てしまえば決意が揺らいでしまいそうだった。

***

社長室を出て、私は廊下の壁にそっと手をついた。

足元が頼りなかった。

本当にこれでよかったのだろうか。

もっと別の方法があったのではないか。

彼に相談して一緒に考えることもできたのではないか。

けれど今さら考えても仕方がない。

私はもう決めたのだ。

お腹に手を当てる。

まだ何の変化もない。

それでもこの子はここにいる。

私を母親に選んでくれた小さな命。

「大丈夫……」

自分に言い聞かせるように私はつぶやいた。

涙をこらえ背筋を伸ばす。やるべきことに集中しよう。

そしていつもどおりの表情を作り仕事に戻った。

怜司のそばで働ける時間はもう長くない。

だからこそ最後の日まで秘書としての役目を果たしたい。

それが今の私にできる最後の恩返しだった。

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