LOGIN妊娠が分かってから十日ほどが過ぎた。
私は相変わらず東條怜司の秘書として働いていた。 朝は誰よりも早く出社し、その日の予定を確認する。会議資料を整え、取引先からの連絡を取り次ぎ、必要な手配を済ませる。 仕事をしている間は余計なことを考えずにいられた。 けれど、ひとりになるとどうしてもお腹の子のことを考えてしまう。 この子を産む。 そう決めたはずなのに現実を考えると不安は尽きなかった。 出産にかかる費用。仕事を辞めたあとの生活。子どもを育てるために必要なもの。 ひとつずつ考えていくと何もかもが簡単ではないと分かる。 それでも後悔はしていなかった。 この子を守ると決めたのは私自身だ。 誰かに頼るのではなく自分の力で育てていかなければならない。 そう思っていた。 「白石。今日の午後の予定を確認してくれ」 デスクの向こうから怜司の声がした。 「はい。本日は十四時から取引先との打ち合わせ、十五時半から役員会議が入っております」 「役員会議の資料は」 「先ほど各役員のデスクに配布しました。社長用の資料はこちらにございます」 私は資料を差し出した。 怜司は受け取り目を通してからうなずいた。 「ありがとう。いつも助かる」 「恐れ入ります」 短い会話。 たったそれだけのことなのに彼の声を聞くと胸が苦しくなった。 本当は伝えたい。 怜司さん。私、妊娠しました。 あなたの子どもです。 けれど、その言葉を口にすることはできなかった。 あの夜の言葉を信じたい気持ちと、翌朝に聞いた電話の内容が、今も心の中でぶつかり合っていた。 もし妊娠を伝えれば彼は責任を取ろうとするだろう。 けれど、私は責任から始まる結婚を望んでいるわけではない。 唐突に、社長室の電話が鳴った。社長へ直通の内線を繋げる人は限られている。 「……父さん?」 怜司の声が聞こえた。 「今から?分かった。こちらに来るなら十四時までにしてくれ。会議がある」 電話を切った怜司は手元の資料に視線を戻した。 私は予定表を確認しながら尋ねた。会議まではあと一時間。 「会長がお越しになるのでしょうか」 「ああ。少し話があるらしい」 「承知しました。お茶をご用意いたします」 「頼む」 それから三十分ほどして会長が社長室を訪れた。 東條グループの会長であり怜司の父親でもある人。 何度か顔を合わせたことはあるがいつも緊張してしまう相手だった。 「失礼いたします。お茶をお持ちしました」 二人の前にカップを置き私は一礼した。 「ありがとう。白石さん」 会長は穏やかに礼を言った。 その口調は丁寧だったが視線はどこか鋭い。 「怜司。少し時間をもらうぞ」 「そのために予定を空けたんだろう。話してくれ」 怜司は椅子に座ったまま父親を見た。 よほど急いでいたのだろう、会長はひと口お茶を飲むと、私の退室も待たずに切り出した。 「お前の結婚についてだ」 その言葉に思わず動揺してしまう。 結婚。 聞きたくない言葉だった。 これ以上プライベートな会話を聞かないよう、そのまま急いで扉へと向かう。 「白石、待て」 ふいに呼び止められる。 「はい」 「今後の予定の調整に響くかもしれない。少し残っていてくれ」 「承知いたしました」 電話で話していた、見合いの予定をいれるのだろうか。私は手帳を開き、万が一にも動揺を悟られないよう壁際に控える。 会長も特に気に留める様子はなく、怜司さんに向き直った。 「またその話か」 怜司は面倒そうに息を吐いた。 「何度も言っているが見合いなんぞで結婚するつもりはない」 「必ずしも見合いとは言っていない。ただそろそろ相手を決めておけと言っているんだ」 「必要になったら考える」 「必要になってからでは遅い。お前は東條グループを継ぐ立場なんだぞ」 会長の声が少し低くなった。 「結婚はお前ひとりの問題ではない。会社の将来にも関わる。家同士のつながりもあるし周囲からの期待もある」 「分かっている」 「分かっているならもう少し真剣に考えろ」 私は手元の手帳を穴が空くほど見つめていた。 これ以上聞きたくなかった。 「細井商事からの見合いの話も来ている。先方はお前に好意的だ。会うだけ会ってみたらどうだ」 「仕事の合間に見合いまでしろと?」 「仕事が忙しいのは分かっている。だがいつまでも後回しにはできない」 怜司はしばらく黙っていた。 その横顔からは何を考えているのか読み取れない。 「……考えておきます」 ようやく口にした言葉はそれだけだった。 会長は満足したのかうなずいた。 「そうしてくれ。お前のためでもあるんだからな」 *** 廊下を歩きながら私は何度も会長の言葉を思い返していた。 結婚は会社の将来にも関わる。 家同士のつながり。 周囲からの期待。 どれも私には関係のない世界の話だった。 怜司は東條グループを背負って生きている。 その立場にふさわしい結婚を求められるのも当然なのだろう。 彼の隣に立つ女性はきっと私とは違う。 家柄がよく教養があり社交の場にも慣れていて東條家の一員として周囲から認められる人。 私には何ひとつ自信がなかった。 だったら私が身を引けばいい。怜司のそばを離れればいい。 そうすれば彼は彼の人生を歩める。 私はこの子を自分の力で育てていける。 もちろん簡単なことではない。不安もあるし怖さもある。 それでも決められるのは、今しかないのだ。 *** その日の仕事を終えたあと私は自分のデスクに残っていた。 パソコンの画面には退職願の文書が表示されている。 何度も書き直しようやく形にしたものだった。 退職理由は一身上の都合。 本当の理由など書けるはずがなかった。 怜司の子どもを授かったこと。 彼を好きでいることが苦しくなってしまったこと。 そしてこの子を守るために彼の世界から離れようと決めたこと。 何ひとつ伝えられない。 私は文書を印刷し内容を確認した。 これを提出すればもう今までのように彼のそばにはいられなくなる。 毎朝顔を合わせることも。 仕事の合間に声をかけてもらうことも。 彼の横顔を見ながら胸を高鳴らせることも。 すべて終わる。 そう考えると涙が出そうになった。 ずっとそばにいたかった。 彼の役に立ち仕事で成功する姿を近くで見ていたかった。 いつかほんの少しでも彼にとって特別な人になれたら。 そんな夢を捨てきれずにいた。 けれど、もう終わりにしなければならない。 私は退職願を封筒に入れ鞄にしまう。 明日提出しよう。そう心に決めてパソコンの電源を落とす。 通勤途中の歩道には落ち葉が目立つようになった。冷たい風に肩をすくめながら、紗奈はコートの襟元を引き寄せた。 *** 翌朝、社長室に入ると怜司はすでに仕事を始めていた。 「おはようございます、社長」 「ああ、おはよう」 私はいつもどおり朝の予定を説明し必要な資料をデスクに置いた。 そのあとひと呼吸おいてから声をかけた。 「社長。少しお時間をいただけますでしょうか」 怜司が顔を上げた。 「どうした?」 私は鞄から封筒を取り出し両手で差し出した。 「突然で申し訳ありません。退職させていただきたくこちらをお持ちしました」 怜司は封筒を受け取ったもののすぐには中を確認しなかった。 「……退職?」 「はい」 怜司はゆっくりと封を開け、退職願を一瞥する。 「理由を聞いてもいいか」 私は用意していた言葉を口にした。 「一身上の都合です」 「書類を見ればわかる。そういうことが聞きたいわけではない」 「……申し訳ありません」 怜司の声がわずかに低くなった。 「何かあったのなら話してくれ。仕事に不満があるのか。待遇のことか?」 「いえ。そういうことではありません」 「では、なぜ急に辞める必要がある」 私は唇を結んだ。 本当のことを言えば彼はきっと驚くだろう。 妊娠していると知れば責任を感じるかもしれない。 引き止めてくれるかもしれない。 けれど、それでは駄目なのだ。 「……個人的な事情です。申し訳ありません」 怜司は黙って私を見つめていた。 その視線に心が揺れる。 辞めないでほしいと、言ってくれるだろうか。 けれど、そんな言葉を待つ資格が自分にあるとは思えない。 「……少し考え直してくれないか」 やがて怜司が口を開いた。 「君の仕事ぶりには満足している。急に辞められると正直困る」 「申し訳ありません」 「謝ってほしいわけじゃない。事情があるなら相談してくれればいい。俺にできることなら力になる」 その言葉が胸に深く刺さった。 相談してほしい。 力になりたい。 怜司はそう言ってくれている。 本当はその言葉にすがりたい。 今すぐにでも泣きながら打ち明けたかった。 私は妊娠しています。あなたの子どもです。 本当はあなたと一緒にいたいんです。 けれど、それを口にしてしまえば彼の人生を変えてしまう。 私は必死に笑顔を作った。 「ありがとうございます。そのお気持ちだけで十分です」 怜司の眉がわずかに寄った。 「白石」 「はい」 「本当に俺には何も話せないのか」 声は静かだった。怒っているわけではない。 それでも、その切実ともとれる声色と問いかけに胸が締めつけられた。 私は目を伏せた。 「……申し訳ありません」 長い沈黙が落ちた。 怜司は封筒をデスクの上に置きゆっくりと息を吐いた。 「分かった。すぐに結論を出すつもりはないが、君の希望をできる限り尊重したい。人事と相談して決めよう」 「ありがとうございます」 私は深く頭を下げた。 顔を上げることができなかった。 彼の表情を見てしまえば決意が揺らいでしまいそうだった。 *** 社長室を出て、私は廊下の壁にそっと手をついた。 足元が頼りなかった。 本当にこれでよかったのだろうか。 もっと別の方法があったのではないか。 彼に相談して一緒に考えることもできたのではないか。 けれど今さら考えても仕方がない。 私はもう決めたのだ。 お腹に手を当てる。 まだ何の変化もない。 それでもこの子はここにいる。 私を母親に選んでくれた小さな命。 「大丈夫……」 自分に言い聞かせるように私はつぶやいた。 涙をこらえ背筋を伸ばす。やるべきことに集中しよう。 そしていつもどおりの表情を作り仕事に戻った。 怜司のそばで働ける時間はもう長くない。 だからこそ最後の日まで秘書としての役目を果たしたい。 それが今の私にできる最後の恩返しだった。「まま!」 背後から元気な声が聞こえた。 振り返ると、湊が小さな靴を片方だけ持って立っていた。 「湊、お靴履きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、もう片方はどこかな?」 湊は手元の靴を見つめ、それから部屋の中をきょろきょろと見回した。 「あれ? なくなっちゃった?」 「ない!」 「困ったねえ」 私が笑うと、湊も嬉しそうに笑った。 最近の湊は、何でも自分でやりたがる。 靴を履くのも、スプーンを持つのも、私が手伝おうとすると首を振る。 もっとも、靴は左右逆になるし、スプーンで食べるより手で食べた方が早い。 それでも、できることが少しずつ増えていく姿を見るのは楽しかった。 「紗奈、湊の靴ならソファの下にあったわよ」 母がもう片方の靴を持ってきてくれた。 「ありがとう、お母さん」 「はい、湊くん。これでお出かけできるわね」 「ばあば!」 湊は母から靴を受け取ると、私の膝にちょこんと座った。 「ふふ。自分で履くんじゃなかったの?」 「まま」 「はいはい。お手伝いします」 小さな足に靴を履かせる。 ほんの少し前まで、抱っこしていなければどこにも行けなかったのに。 今では自分の足で玄関まで歩いていく。 子どもの成長は、本当に早い。 *** 今日は湊と二人で、商店街まで買い物に行く予定だった。 ベビーカーに乗せようとすると、湊は嫌がって両手を伸ばしてきた。 「歩きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、少しだけね」 手をつないで歩き始めると、湊は一歩ごとに足元を確かめるように進んだ。 道端の花。 電柱の影。 風に揺れる木の葉。 大人なら気にも留めないものが、湊にはどれも新鮮らしい。 「まま、あ!」 湊が指さした先には、小さな犬がいた。 「わんわんだね」 「わんわ!」 「そうそう、わんわん」 飼い主の女性が微笑み、犬も尻尾を振った。 湊は嬉しそうに笑ったけれど、犬が近づいてくると、慌てて私の足にしがみついた。 「怖かった?」 「……わん」 「大丈夫だよ」 しゃがんで抱き上げると、湊は私の肩に頬を寄せた。 商店街に着く頃には、湊はすっかり疲れてベビーカーの中で眠っていた。 「お疲れさま」 小さな寝顔
「紗奈、そろそろ携帯を買い替えたらどうだ?」休日の朝、父が新聞を読みながら言った。「え、どうして?」「昨日も充電が切れたって言ってただろう。もう何年使ってるんだ」「四年くらいかな。最近、急に電源が落ちることがあって」「それなら買い替えた方がいい。湊を連れて出かけたときに使えなくなったら困るだろう」確かに、その通りだった。先日もスーパーで買い物をしている最中に電源が落ち、母からの電話に気づかなかったことがある。「そうだね。今日、見に行ってこようかな」「湊は私たちが見てるから、ゆっくり行ってきなさい」母が台所から顔を出した。「え、いいの?」「もちろん。たまには一人で出かけてきたら?」紗奈は少し迷ったものの、ありがたく甘えることにした。湊が生まれてから、一人で外出する機会はほとんどなかった。久しぶりに身軽な格好で家を出ると、秋の風が頬を撫でた。もう夏も終わりに近づいている。***携帯ショップは、休日ということもあって混雑していた。受付を済ませてから三十分ほど待ち、ようやく名前を呼ばれる。「本日は機種変更ですね」「はい。最近、電池の持ちが悪くて」「かしこまりました。ちなみに、電話番号はそのままお使いになりますか?」店員の何気ない質問に、紗奈は顔を上げた。「……番号って、変えられるんですか?」「はい。新しい番号でご契約いただくこともできますよ。ただし、その場合はご家族やご友人に新しい番号をお知らせいただく必要があります」「そうなんですね」紗奈は膝の上に置いたバッグに目を落とした。電話番号を変える。今まで、そんなことは考えてもいなかった。けれど、その言葉を聞いた瞬間、ある人の顔が浮かんだ。東條怜司。昨夜も、彼からメッセージが届いていた。『白石。来月、少し時間を作れないか。君に会って話したいことがある』その文章を、何度読み返しただろう。会いたいとしっかり言葉にされたのは初めてだった。私にだって伝えたいことはたくさんある。それでも、一度返事をしてしまえば、きっと彼は会いに来る。仕事でも、一度決めたことは必ず実行する。曖昧な態度で引き下がるような人ではない。「お客様?」店員に声をかけられ、紗奈は我に返った。「あ、すみません」「いえ。お電話番号はいかがなさいますか?」紗奈は少し考えてから、口を開いた。
時が流れるのは早い。育児に奮闘しながら必死に過ごしているうちに、湊はあっという間に一歳の誕生日を迎えた。去年の今頃は、まだ腕の中で眠ることしかできなかった小さな命が、今では家具につかまって立ち、得意そうに笑っている。「湊、お誕生日おめでとう!」母が拍手をすると、湊も真似をして小さな手をぱちぱちと叩いた。「まあ、上手!もう一回やってみて」「ばば、ばあば!」「はいはい、ばあばですよ」嬉しそうに孫を抱き上げる母を見て、私は思わず笑顔になった。リビングには色とりどりの風船が飾られ、テーブルには母が作った料理が並んでいた。私が朝から格闘して作った小さな誕生日ケーキも、冷蔵庫で出番を待っている。「お父さん、写真撮ってくれる?」「ああ。湊、こっち向いてみろ」父がスマートフォンを構えると、湊はなぜか反対方向を向いた。「おいおい、じいじはこっちだぞ」「湊、こっち!」私が呼ぶと、今度は満面の笑みで振り返った。「よし、撮れた!」父が得意げに画面を見せてくる。そこには、湊ではなく、必死に息子の気を引こうとしている父の顔が大きく写っていた。「お父さん、これインカメになってる。お父さんしか写ってないよ」「おかしいな」「貸して。私が撮るから」「いや、今度こそ撮れる」そんなやり取りを繰り返していると、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」母が出迎えに行くと、聞き慣れた声がした。「こんにちは。これ、湊に」「まあ、悠真くん!ありがとう。上がっていって」高瀬悠真だった。「お邪魔します」悠真は小さな紙袋を手に、リビングに顔を出した。「湊、誕生日おめでとう」「ゆー!」湊は悠真を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばした。「お、覚えててくれたか」悠真がしゃがむと、湊は迷わずその腕に飛び込んだ。「ちょっと湊、悠真が来るといつも大喜びなんだから」「俺のこと好きなんだよな?」「きゃっ!」湊が笑い声を上げると、悠真も楽しそうに笑った。悠真は仕事の合間や休日に、ときどき顔を出してくれるようになっていた。買い物を手伝ってくれたり、湊の遊び相手になってくれたり。気がつけば、湊にとってもすっかり馴染みのある存在になっていた。「これ、プレゼント。よかったら使って」紙袋から出てきたのは、木製の積み木だった。「わあ、可愛い!ありがとう」「角が丸く
庭の木々が色づき、やがて葉を落とす頃には、湊もずいぶん表情が豊かになっていた。成長とともにわがままも増え、日中は一緒に過ごすだけでへとへとだ。ようやく湊が眠った夜、紗奈のスマートフォンが震えた。画面には、懐かしい名前が表示されていた。『藤崎美咲』東條グループで働いていた頃の、仲が良かった同期だ。入社当時は同じ部署に配属され、昼休みにはいつも一緒に食事をしていた。お互い部署の異動があってからは、なかなか顔を合わせる機会もなくなっていた。最後に会ったのは、いつだっただろう。育児ばかりの毎日で少し疲れていた紗奈は、久しぶりに明るい彼女の声を聞きたくなり、電話を取った。「もしもし、美咲?電話ありがとう、久しぶり〜」『紗奈!よかった、元気?ちょっとあんた、どうしたの?仕事辞めたこともつい最近知ったのよ!全然連絡くれないんだから』「ごめんごめん。ちょっと色々大変で、毎日ばたばたしてて」『……そっか、お疲れ様。まあ、元気ならいいんだけどね』相手の態度から瞬時に事情を察し、深く追及してこないところも美咲の素敵なところだ。「久しぶりに美咲の声聞けて嬉しい〜」『なによ〜、退職の連絡もくれなかったくせに!』「本当にごめんってば。美咲はどう?仕事忙しい?」『忙しいわよ。先月なんて残業続きで、せっかく予約した美容院もキャンセルしたんだから』「あはは、美咲が美容院を諦めるなんて相当だね」『そうなのよ!でもね、最近ちょっと面白いことがあって』「えっ、なになに?彼氏できた?」『残念、そっちは相変わらず。でも、すごいんだから、聞いてよ』弾んだ声の美咲から出るのは、大抵社内の恋愛か不倫の話題だった。以前も、営業部の課長と経理部の女性社員が付き合っているという噂を聞きつけ、昼休みいっぱいを使って紗奈に報告してきたことがある。今回もその類いだろうと思っていた。『今日ね、なんと社長に呼び止められたの』「……社長に?」思いがけない名前に、紗奈は姿勢を正した。『そう。廊下でばったり会ったら、白石とは最近連絡を取っているかって』「それで、何て答えたの?」『最近は連絡してないって言ったら、そうか、って。それで終わりかと思ったんだけど』美咲は楽しそうに笑った。『そのあと、白石は元気にしていると思うか、って聞かれたのよ』「……そんなことを?」『びっくり
春の終わりを見送った覚えもないのに、いつしか夏が来ていた。窓の外では、蝉が短い命を惜しむように鳴いている。七月の強い陽射しがカーテン越しに差し込み、私は大きくなったお腹をそっと撫でた。出産予定日が近づくにつれ、お腹はますます重くなっていった。寝返りを打つにも時間がかかり、少し歩くだけで息が上がる。母は家事を引き受け、父も休日には買い物や重い荷物を運ぶのを手伝ってくれた。「必要なものは揃っているか?」父がベビーベッドの横で尋ねた。「うん。あとは赤ちゃんが生まれてくるのを待つだけだよ」「そうか。何か足りなかったら言いなさい」父はベビーベッドの柵を確かめると、満足そうにうなずいた。母と一緒に選んだ小さな肌着も、きれいに畳んである。もうすぐこの服を着た赤ちゃんを抱けるのだと思うと、不安の中でも自然と顔がほころんだ。「もうすぐ会えるね」私はお腹を撫でながら話しかけた。そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、指が止まる。東條怜司。『無理に返事をしなくていい。ただ、元気でいてくれたらそれでいい』ずいぶん前に届いたメッセージが、画面に残っている。何度も読み返した言葉だった。返事をしなくてもいいと言ってくれた、その優しさに甘えたまま、私は結局一度も返信できずにいた。その下には、半年以上ぶりに新しいメッセージがあった。『返事はいらないと言ったのは俺だったな。前言撤回させてくれ。元気か?』彼らしい文章に、思わず口角が上がる。責める言葉は、どこにもなかった。それがかえって、胸に痛かった。怜司さんは、まだ私を心配してくれている。何も知らないまま。今、私のお腹の中にいる小さな命が、あなたの子供だということも。既読がついたのに気づいたのだろうか。画面を見つめていると、さらにメッセージが届いた。『今度こそ、ちゃんと時間を取ろう。食事でもどうだ』まるで、私が断ることをわかっていて、それでも誘ってくれているようだった。あの人は、こんなふうに何度も連絡をくれる人だっただろうか。お腹の子が、小さく動いた気がした。スマートフォンを伏せる。「……もうすぐ会えるね」今は、この子を迎えることに集中しよう。***陣痛が始まったのは、夜明け前だった。最初は下腹部に鈍い痛みを感じる程度だったが、次第に間隔が短くなり、痛みも
実家に戻ってから二週間ほどが過ぎた。その日は朝から母の体調が優れず、代わりに商店街へ買い物に出かけていた。買い物を終え、スーパーの袋を提げて商店街を歩いていると、背後から声をかけられる。「……紗奈?」聞き覚えのある低く清涼な声だった。振り返ると、少し離れたところに背の高い男性が立っていた。白い厚手のコートの袖を肘までまくり、片手に紙袋を持っている。一瞬、誰だか分からなかった。けれど、その人が目を細めて笑った瞬間、記憶がつながった。「……悠真?」「やっぱり紗奈だ」高瀬悠真。小学校から高校まで一緒だった、幼なじみだ。「えっ、久しぶり!」「久しぶりって……何年ぶりだよ」「五年くらい?」「六年。成人式以来だろ」「そんなに経つ?」「経つよ。相変わらずだな」悠真は呆れたように笑った。昔より背が伸びた気がする。もう少し細身だったのに、今は肩幅も広くなっていた。けれど、笑うと少し目尻が下がるところは昔のままだ。「悠真、こっちに住んでるの?」「ずっといるよ。大学出てから戻ってきて、就職先もこっち」「そうなんだ。全然知らなかった」「お前、東京行ってからほとんど帰ってこなかったもんな」「仕事が忙しくて」「知ってる。おばさんから聞いてた。東京の大きな会社で社長秘書やってるって」「……もう辞めちゃったけどね」私がそう言うと、悠真は少し驚いた顔をした。「辞めたの?」「うん。最近」「そっか」何か尋ねられるかと思ったけれど、悠真はそれ以上聞かなかった。代わりに、私の持っている買い物袋に視線を落とした。「それ、重くない?」「大丈夫だよ。そんなに買ってないし」「貸して」「えっ、いいよ」「いいから」そう言って、悠真は私の返事を待たずに袋を受け取った。「ちょっと、昔からそういうところ変わらないね」「何が?」「人の話を聞かないところ」「お前が遠慮しすぎなんだよ」当たり前のように言い返され、思わず笑ってしまう。高校生の頃も、悠真はこうだった。私が文化祭の準備で大量の荷物を運んでいると、何も言わずに半分持っていってしまう。テスト前に参考書を抱えて帰っていると、「重そう」と言いながら勝手に鞄を持つ。そのたびに私は「自分で持てるのに」と文句を言っていた。懐かしい。「そういえば悠真、今は何の仕事してるの?」「駅の